2015年5月24日日曜日

はみだしコラム:「確率」のまやかし

 よく、「確率OO%だから、これをXX回繰り返せば必ず実現する」と言う人がいますが、それは本当でしょうか。
あまり学術的ではないかもしれませんが、自身なりの考えを書いてみます。
確率論への幻想を捨てたくない人や、いい加減な理屈には反論しないと気が済まない人などは回れ右してくださいね。

以下本文。

 まず最初に、冒頭に言った「確率OO%だから、これをXX回繰り返せば必ず実現する」は、全くのデタラメではないものの、真実でもない、ということからです。
以降の内容には、結構学術的でない用語とかを使用していますので、理系(特に数学とか)の専門家の方はあまりツッコまないでくださいね。。。


 実のところ、「確率」というのは概ね2種類あります。

ひとつは、実際に起こった事象の中から特定の事象の発生割合を抜き出した「統計的割合・確率」。
もうひとつは、ものの持つ性質から理想上の確率を導き出した「理論的割合・確率」です。
ちなみにこの名称はいい加減につけたものなので、学術的に違うとかといった意見は却下です。


 まずは「統計的割合・確率」。

 これは、実際に起こった事象から割合や確率を求めたうえで、将来的にそれと同一条件の事象が発生した時に同じ事象がどれだけ起こりやすいと推測されるか、ということを示すものです。
いわば、「過去の発生頻度」を確率に転嫁したものと言えます。
降水確率や出生率、地震や火山噴火などの発生確率など、一般的にニュースなどで発信される「確率」と呼ばれるものは、概ねこれにあたります。

この統計的割合・確率を導き出す際には膨大な過去の情報を蓄積・分析してゆらぎの要素を極力排除しているため、過去と同一または類似の条件下での合致率は比較的高めです。
そのため、メディアなどでも大から小までよく取り上げられます。

 しかしこの確率「情報」はメディアなどで広く発信されるがゆえに、一般的な「情報を疑わない人」はこのデータの「まやかし」に引っかかりやすい傾向にあります。

 なにが「まやかし」なのか。

それは、この情報が「過去に起きた事象が未来にもそのまま起こると想定されている」ことと、「都合の悪い事象や統計的確率が極端に低いものは排斥されやすい」ことにあります。

 前者が問題なのは、統計的割合・確率は「過去の積み重ね」でできているにもかかわらず、未来にも同じ積み重ねが繰り返されるとみなされている点です。

この確率は、実証発生の割合が不定(あるいは計測不能)なものに対して、便宜上の割合をつけているに過ぎません。
したがってこの確率は非常にゆるぎやすく、積算数が膨大になればそれなりに信用できるものと言えますが、たかだか数百、数千程度ではそれほど信用性が高いとは言えません。
もし、それまで低確率だとみなされていた事象が偏って発生したとすれば、総積算数によってはそれが一気に多数派にのしあがってくる可能性もないとは言えないのです。

つまり、想定していた未来が過去になった時、本当に推定した通りの確率でことが起きているかどうかは一切保証されていないのです。

後者が問題になるのは、当然ながら「人為的に確率(と呼ばわるもの)を操作できる」ということです。
これの問題性は、歴史的大災害と呼ばれることになるであろう「東日本大震災」を見ればわかると思います。

実はこの未曾有の大災害は、ごく一部の学者の間では将来的に、それも人間が存続しうる時代の何時かには起こるとされていました。
中には、あれほどの近い時点ではなかったものの、10年あるいは100年単位の未来に起こるかもしれない、という意見を持つ方もいたようです。
しかし実際にはそういう「都合の悪い現実味のほぼない確率」は排斥され、ほぼ0の事象として取り扱われてしまいました。

その結果がどうなったか。それは皆が知ってのとおりです。

もちろんこれで求められる確率が悪いというわけではありません。
0に限りなく近いものまで考慮することは、どうしても行動に制約を与えてしまいます。
ともすれば、考慮をし過ぎることによって身動き一つ出来ない状況に陥ってしまうこともあり得るでしょう。

あくまでも問題となるのは、「操作されうる」統計的割合・確率を全能なものとして信じこんでしまうことなのです。
この手の確率「情報」を見る場合は、どこかに欠けが漏れがあるかもしれない、情報の偏重があるかもしれない、と心に留めておくことが必要です。
もちろんそれが過ぎてしまうと、カルテックな都市伝説や創作神話論者のような偏屈なものになってしまうことも考えられるので気をつけましょう。

また、0に近い確率のものを「ないもの」とはせず、片隅に留めて置くことが重要だと考えます。
企業活動などにおいて災害などを勘案する場合、すべての事象を織り込むことは事実上不可能でしょうが、それでも統計的に頻度の低いものを「ないもの」として排斥してしまうのは誤っていると考えます。


 次に、「理論的割合・確率」です。

これは、コインの裏表の出現率やサイコロの目の出現率、くじを引いた時の当選率などが該当します。
もちろんこれはそのものの持つ性質から導かれるものなので、統計的割合・確率よりは信用度が高いものとも言えます。

 しかしこれについても、色々と問題となる点があります。

 まず、冒頭に言った「確率OO%だから、XX回中OO回は必ず起こる」という「勘違い」です。
なぜそれが「勘違い」かと言うと、その考え方には前に言った「統計的割合・確率」が混同されてしまっている、ということです。

確かに理論的割合・確率によって算出されるものは、確からしい確率ではあります。
しかし現実では、それが紐付けられるのは「統計的割合・確率」なのです。
不確かなものの発生確率として確からしい確率を適用するのは、残念ながら問題があると言わざるを得ません。

その裏付けとして試行を行うにしても、結局は統計的割合・確率を算出しているに過ぎません。
試行環境に何らかのゆらぎや阻害要因などがあれば、その確率は理論値と乖離してしまいます。

また、試行回数を増やせば理論的割合・確率に近づくかもしれませんが、あくまでもそれらが一致するのは試行回数(確率算定の母数)が無限大に到達した時です。
それが理想状態でない統計であるかぎり、ミクロ視点で見た際には必ずどこかに「確率のゆらぎ」が存在するはずです。

この辺りはおそらく学校で確率論(の初歩)を習うときに教わっているはずなのですが、わりと勘違いしている人は多いようです。

 また、「すでにOOという事象が偏って起こっているから、次はXXという事象のほうが起こりやすい」という考え方もある意味誤りです。
それは、統計的割合・確率を良いように混同して考えているに過ぎません。

例えば、「六面体サイコロを3回振って1の目が出る確率は216分の1」というものがあります。
これをして、例えば「3個連続で1が3つ出続けるのが216分の1」などと見做すことがあります。
しかし数学的には、「サイコロを3個振る行為」を一つの塊と見做した時、試行母数が無限大に到達した時の「1が3つ出る事象」の割合が全体の216分の1である、と言っているに過ぎません。
従って、「3個同時に振った際の、1が3つ出現する期待値が216分の1である」という分には嘘ではないのですが、先に言った例においては嘘が混じっている、と言えなくもないのです。

これはあくまでも個人的な考え方なのですが、例え直前の試行で1が2つ出現していたとしても、その次の試行で1が出る確率はあくまでも不変で「6分の1」です。
例えどこまで回数を増やしても、ミクロで見たその確率に変動はないはずです。
つまり、いくら1の目が連続で出現していようとも、その次の試行で1の出る確率が極端に下がる、ということは決してないのです。


 よく「確率OO%の低さでこういうことが起こるのはおかしい!」と憤慨する人がいますが、確率が0でない以上はその事象が起こる可能性はなくなりません。
統計的にも理論的にも、それは発生しうるのです。
たとえそれが、自分にとって不幸としか思えない事象であったとしても。

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